直言曲成#2(00/07/22)
悪行の果てに石の中に閉じこめられた孫悟空が、三蔵法師によって、〔限定的〕ではあるが、解き放される場面から、『西遊記』が始まる。無論この『西遊記』は夏目雅子さんが登場する『西遊記』ではない。少年の頃の、漠たる思い出のなかから拾い出したものである。
さて、古来からあるこのような観念を、抽象的に表現すると、人間の魂は、罪を犯す毎に物質界のなかに、いまよりもさらに深く沈み込み、限度を超すとその被服(肉体)までが物質(石)の中に閉じこめられる、となろう。
犯罪に対する刑罰も、この観念と無縁ではない。罰金刑(これも物質的なものによる拘束である)・懲役・無期懲役・死刑に到る流れを考えてみるがいい。
死刑は、言うなれば「魂の学校としての社会」からの強制退学である。本来退学にすべき生徒を放置すれば、学校は日ならずして荒廃の色を濃くするであろう。一般の生徒のなかには、本来辿る筈であった人生と別の道に逸れる者が出てくるにちがいない。
〔学校〕という小さな閉鎖系なら、すぐ理解できる事柄が、〔社会という巨大な、無数の魂が通う学校〕でも同じだと、法曹界の方々はお考えにならないらしい。
〔人権〕もいい。しかしながら、人類に開かれた、意識の未曾有の変革期に当たっては、これまで〔罪〕と切り離されてきた〔罰〕は、改めて〔罪〕と関わる視点から、〔社会をまるごと地獄化させる力〕への防壁として、再構築されるべきである。
明確な犯罪行為に対する果断な処置――それは焦眉の急である。いたずらに裁判を長引かせる某事件の弁護団の先生方は、「社会の劣化」を秘かに意図されているのではないか。もっともその方が商売にはなるが。
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