會津正之
昭和12年12月生。会社員。著書:「秘の鎮魂歌――万葉集は何故編まれたか」伊村正之名著(八重岳書房)



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直言曲成


直言曲成#3(01/1/17) 

 いささか旧聞に属するが、某県某中学校が期末試験を廃止するという記事が、新聞に載ったことがある。その理由は確か、オチコボレの子供が可哀想だから、であった。この記事に対して「二人三人のオチコボレを無くす為に、全員をオチコボレにするのか」という投書があったと記憶している。
 切り抜きを忘れたので、此の記事そのものを取り上げることはせず、只「枕」にしたい。
 
 おそらく生徒達は、自衛策を講じるだろうから、「全員がオチコボレル」ことにはならないだろう。が、「弱者を労るために自分を弱者にする」という『考え』を実践した子供が居た、と「仮定する」と、その子供が辿るであろう人生は、思うに暗澹たるものにならざるを得まい。「社会」はそういうものではないからである。
 
 十数年後、その子供(大人)の消息を聞いて、先の中学校の教師達に尋ねると、「それは自分たちの思想のせいではない、社会が悪いのだ」と答えるであろうことは、先ず間違いない。
ここで、(敢えて承知して)論旨を飛躍させ、次ぎの質問をしよう。
 ――「弱者をいたわる」、「みんな仲良く」、「平和」、「平等」、「民主」、「人権」……といった〔一つ一つを取り上げると、成る程もっともな、反対できない、むしろ賛同したい観念〕を一括りに括った『観念?』(戦後民主主義と呼んでいいかも知れない)で進められてきた「運動」が社会のなかで一定(以上)の力を持つと、何故その目的としたものと逆の現象が現れてくるのか?
 その宣教師達の『観念?』には、明確な特徴がある。
 
 それは「自己を性善・正義、他者を悪とし、その主張にとって都合の悪いことは他者のせいにする」ことと、「無菌状態さえ作り出せれば、人間は善なるものになる」の二つである。
 
 この二つは、コインの表と裏の関係にある。
実際の社会では、この『観念?』は百%実現されないから、彼らが自らの思想を顧みる機会は先ず無いと見ていい。まさしく金剛不壊体である。
 
 その金剛不壊体が気化して何千PPMかに達する空気のなかで私達は呼吸しており、いまや「責任を取らない」・「他人のせいにする」態度は「アタリマエのもの」に化した。
 この『観念?』を主導実践できる場ができると、たとえばそれが政治の世界であれば、今まで「民主」、「話し合い」、「弱者の声を聞け」が一転して圧制になるのは、別に不思議ではない。自らを「正義」、対立者を「悪」とし、かつ「自らの意を通すことに急」で「言と行の一致」に無関心であれば、すべては許される。
 
 かくて遠くはフランス革命に始まって現代に到るまで、この『観念?』は様々な衣裳をまとって登場し、闊歩しては同一国家〔内〕あるいは同一民族〔内〕で多大な血を流した。
 その血は、国家〔間〕あるいは他民族〔間〕の戦争で流された血とは、淵源を異にするのである。
第二次世界大戦以降、人類の闘争史は「武器を使う戦争」から「経済戦争」へと、その局面を移したが、その『観念?』も政治からむしろ行政・文化・教育・環境といった方面に活動拠点を移した。そして五十数年を経た今、例えば教育の分野の惨状は眼を覆わしめるものがある。だが、何故そうなってしまうのか、という方向に問題をもって行かず、今回は次ぎの指摘に留めよう。

 自然界の全ては微妙な相互連関のなかで、それぞれの「場」を得ている。空気の成分が僅か変わっただけで、私たちは死滅してしまうのである。生物間、私たちの体内に棲息する菌のバランス等々……。
 「近代」という時代の鬼っ子というより正嫡子というべきこの『観念?』も、人類に積み重ねられてきた諸々の叡智と、何PPMかの比に落ちて、始めて共存できるのであろう。
 
 揺り戻しが始まっている、と私は感じる。どのような意識の在り方がベースになるのか分からぬが、その新しい土俵の上で漸く、この(変に肥大したが故に今や思想といえるかどうか分からない)『観念?』もその「場所」を得、初期の輝きを取り戻すのではないか。
 
 此処まで来て私は、「プロバイオテックス」という言葉にぶつかった。アレルギー、免疫、感染症の分野で使われる用語で、「病原菌を完全に無くすと言うのではなく、病気を起こさない程度にまで細菌の数を減らして、病気を封じ込める」という考えらしい。
 しかも「封じ込めるに生菌を使うのが特徴」とのことである。
 揺り戻しに必要なヒントがここにある。



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