會津正之
昭和12年12月生。会社員。著書:「秘の鎮魂歌――万葉集は何故編まれたか」伊村正之名著(八重岳書房)



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直言曲成


直言曲成#4(01/02/26)

 池宮彰一郎氏は、小説『四十七人の刺客』のなかで、大石内蔵助にかく言わせている。
 「……よいか、人という生きものは稲や麦、鶏や魚、この世に生きるもののいのちを食い散らかして生きておる。人がけだものと異なる唯一つのものは、生きることそれ自体より、〈よく生きる〉そのことに意義を見出さずにはおれぬことにある。関ヶ原から大阪の陣で戦国の世が終って百年近く、弓は袋、刀は鞘におさまり、世はあげていのち大事、人は一日でも長く生きることが至上とされるようになった。だがいのち長ければよいか、いのちを尊ぶのみで、魂は死んでもよいのか、いのちより尊ぶもの、いのちより値打ちあるものを持たずして何の侍か。いまこそわれらはいのちより尊く重いものがあることを世に示す。それが侍として生まれ、侍として生きたわれらの値打ちである」

 氏が此処で、あるいはこの小説を通して、なにを訴えんとしているのかについては、読者それぞれが感じ取るべきであろう。私は私自身の心のなかに生じた残響についてのみ語ろうと思う。それを呼び起こしたのは次の言葉であった。
 「……いのち長ければよいのか、いのちを尊ぶのみで、魂は死んでもよいのか……」
 この言のなかの「いのち」は、明らかに「肉体的生命」のことである。

 「魂」はどうであろうか。大胆に言えば、今生でこそ肉体的生命のなかに閉ざされているが、それを越えて生き続ける「意識」のことである。

 「魂」の成長に必要な栄養はなんであろうか。それは忍耐・愛・勇気といった精神的美質に他ならない。肉体は、私たちがうまいものを食べようが、まずいものを食べようが、関係なく必要な栄養素を摂取し、残りを排泄する。
 「魂」は、私たちがどんな性別にあり、どのような職業に就き、どんな出来事に出会おうが、それと関わりなく、私たちの「態度」によって成長し、沈倫する。
 ある出来事に勇気をもって対処すれば成長し、怯懦を見せれば汚濁の中に落ち込むだろう。そういう意味で、人生は「幻影」であり、「夢」である。

 「魂」が望んでいるのは、「死から生を視る」生き方である。そして近代という時代は、それまでの諸時代と異なり、「死を放逐し、生のみを見る」ことを時代の意志としている。
 哲学者ニーチェは、その「意志」の果てに「大いなる虚無」を観た。


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