會津正之
昭和12年12月生。会社員。著書:「秘の鎮魂歌――万葉集は何故編まれたか」伊村正之名著(八重岳書房)



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直言曲成


直言曲成#7(02/01/06)

 「ヴィジョンなき民は滅びる」と聖書にある、らしい。らしい――というのは、この言葉を引用している著者が典拠となる章句を明らかにしていないので、そう言うのだが――とはいえ、いま、日本の各所に垣間見える「亡国の兆し」を思うと、身にしみる言葉である。
 また、一首あった。産経歌壇(11/18)の投稿歌のなかにあったのだが、
 「戦など誰が好むか」手に負へぬ護憲論者の冗舌に倦む  海南市 阿倍 有
 に、思わずニヤリとしてしまった。作者のムカッときた気持ちが巧みに表現されている。

 イデオロギー、あるいは理念の物神化――ロシアの思想家ニコライ・ベルジャーエフの言葉で言うと客体化――の恐ろしさは、生身の人間と歴史が見えなくなることである。
善意、人道、人類愛、正義感、理想国家樹立から発した思想なり行動が、何処かで変質し、他者を抑圧し、排斥し、抹殺し、また歴史を改竄して恥じないものとなる。無論、本人は「絶対的な正義」の上に立脚しているので、自己の変質など気が付かない。
 だが、彼らに於いては、明確に「言葉」と「行動」は分離し(それが特徴である)、「言葉」はその場の方便に過ぎず、野党の時には「言論の自由」を声高に語り、権力の座につけば、反対意見を弾圧し、抹殺することなぞ、なんの痛痒も感じない作業である。
 確かドストエーフスキイだったと思うが、彼はイエス・キリストの「隣人愛」に対比して、この種の思想(?)を「遠人愛」と呼んだ。残念なことに、この思想(?)程、人をして己を偉大に感じさせ、酩酊させ、行動に駆り立てるものはない。
 「この思想(?)に乗り移られた意識」と対極にある「意識」を想定すると、只々清澄、明晰、宏大でありながら、なお自らを卑小として感じるものではないか。
 言うまでもないことだが、「人道」だから、あるいは「イスラム教」だから、ではない。
 これらふたつを含め、多くの理念や信仰の本源は真実深い所から発している。
 「真実なるもの」から「偶像」を造り出す「物神化」現象は、その思想信奉者のなかの、別の(本人たちの気が付かない、影の)部分に由来するのである。

 冒頭の言葉に戻る。
 私たちを絶望的にさせるもののひとつに、日本にはまともな外交政策も国家戦略もない、という事実がある。くっきりとあるべき方向を示す政治家もいないし、今後も出そうもない。
 考えてみれば、日本には「歴史的な蓄積としての外交」が無い。「外交」が始まったのは実質明治からである。大陸にあって数千年を生き抜いてきた諸民族とは、何十周も遅れていて、この分野の経験では互しようがないのである。四つの島に閉じこもって俳句でもひねっていたいというのが日本人の本音だ、と昔、誰かが言っていたが、もしかするとそうかも知れない。
 ならば、私たちの歴史的文化的蓄積のなかで、他の民族と経験と厚みが異なり、それが、取り上げ方によっては、強みになるものはないのか。
 それは、まともな「外交」をもてなかった〔閉鎖系的な環境〕のなかで、現代を招来させた西欧のそれと同期して進んできた、非東洋的な「歴史」である。好むと好まざるを問わず、私たちは原初的なリサイクル 社会(循環的、閉鎖系的社会)という制約のなかで、諸時代を積み上げてきたのである。
 それは単に物質あるいは経済のレベルだけではない。宗教や政治の面でもそうであった。

 この部分に着目すると、一つの飛躍した思念が得られる。
 繰り返すことになるが、「文明という人為の営みを、自然あるいは地球という生命の連鎖系から切り離そうとする」意志を、国家的意志または文明論的な意志にまで高める、というものである。あらゆる活動の見直し、行政と評価基準の変更が求められるであろう。
言うまでもなく人間は自然の産物である。が、人間の「営み」は、航空機・船・コンピューターを造る営みは、生命のあるいは自然の循環とは別種のものである。
 おそらく、あるいは間違いなく、これは、現段階では、白昼夢である。
 だが私は、何処か別の星で、そういう文明が実現しているような気がしてならない。
「技術」などに加えて、立ちはだかる精神の大きな壁のひとつ――それが先に問題にした「物神化」である。「物神化」こそ人類を何度も何度も奈落の淵に突き落とした元凶なのである。


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