建部ロザック
昭和3年6月生。株式会社プルナマインターナショナル代表取締役。訳書等、「スブド」(メルクマール社)、「未来からの贈り物」(八重岳書房)、ほか



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気ままな読書散歩道


貧困なき世界をめざす銀行家
ムハマド・ユヌス自伝(早川書房)


【貧困なき世界をめざす銀行家・その1】

 久しぶりで心を明るくする本に出会った。

 貧しい人々のための全く新しい銀行の誕生の物語である。それが今全世界数十カ国に広まりつつあるマイクロクレジットである。

 創始者ムハマド・ユヌスは1940年、世界で最も過密な人口と、毎年のように大きな洪水災害で悩まされる世界の最貧国バングラデシュでに生まれた。その後米国に留学して経済学を学ぶが、パキスタンからの独立運動が起きると米国からそれを支援し、バングラデシュの独立後は帰国してチッタゴン大学で教鞭をとる。彼が経済学部の部長として学生に教えていたのは、もちろん何万ドルもの資本の流通とその社会経済構造を解明する経済学の理論である。

 しかし1974年の大飢饉のさなか、飢えて骸骨のようになった人々が流入したダッカの惨状を目の当たりにし、ショボラ村でのフィールド調査でソフィアという3人の子持ちの若い女性と出会ったことで転機が生ずる。彼女は何万人もの貧しい女性の1人で、竹細工を編んでその日の糧を得ていた。

 ソフィアは毎日、商人から材料となる竹を5タカ(16セント=20円弱)で買い、その金を返すために日に12時間働いて竹細工を作り、それを商人に売っていた。しかしそれによって得られる1日の利益は50パイサ(1.6セント=2円弱)に過ぎなかった。もちろん食べるにも事欠くどん底生活である。学生たちに調べさせると、その村で同じような生活をしている家族が42あり、その42世帯が悲惨な生活を余儀なくされているのは、原材料を買うための総額で27ドルの金がないからであった。

 ユヌスはソフィアのように少しの土地も持たない、最も貧しい人々、特に女性を助けるために1947年の6月、銀行経営に乗り出す。最初、彼は既存の銀行に赴いて、必要な27ドル(約3000円)の金を彼らに貸してやってほしいと頼みこむ。しかし銀行からはにべもなく拒絶される。

 銀行の融資係は何の担保もないその日暮らしの貧しい人、特に女性に金を貸すなどとんでもないと言い、なぜ担保なしの貧しい女性に金を貸せないかという理由を挙げたが、そのリストは果てしなく続いた。例えば

貧しい人は良識がない。
貧しい人々が収入を得るにはまず訓練と教育と技術を身につけなければならない。
貧しい人は自分の面倒を自分で見るより誰か他人に仕える方を選ぶ。
貧しい人は投資も貯蓄もできない。
貧しい人は金を借りても返済できない。
女性が金を借りることは、家族や慣習が許さない、女性は慣習にはずれた行動をしようとはしない。
女性が金を借りても自分の思うようには使えない。夫が死ぬほど彼女らを痛めつけ、自分が必要なときには彼女の金を奪って自分のために使ってしまう、等々。

 ユヌスは、「銀行は金を貸すに値しない階級の人々を相手にしないことによって、経済的なアパルトヘイト(差別)を生み出している」と言う。ユヌスは結局自分が保証人になって、銀行から1万タカ(315ドル)を借りることにする。

 しかし彼らの指摘もまったく根拠がないわけではなかった。いざ女性達に金を借りられるようにしたと言うと、彼女らは「どうか主人にお金を貸してやってください、お金のことは夫しか分からないのです」「ダメです、わたしには無理です」と口々に言ったからである。

 しかしユヌスはあきらめなかった。彼は女性達がみずからグループを組織し、みずからの手でローン計画をたてるように忍耐強く話をすすめていく。彼は決してせっかちに事を急いだり、無理に押し進めようとはしなかった。バングラデシュの村では、女性は身内以外の男性と話をしないし、顔も見せない。そのため、ユヌスは村をおとずれても直接女性に話すことができず、自分は家の外にいて、自分の教え子の女子学生に家に入ってもらい、それを介して間接的に話をする外はなかった。

 しかし最後にユヌスのねばりが効を奏する。ソフィアを含む村の女性たちは、自分たちで時間をかけて何週間も話し合い、ためらい、躊躇し、確かめた後に、最後に勇気を奮ってローンを申し込む。それしか自分たちに未来はないことを納得したからである。グラミン銀行の始まりであった。


【貧困なき世界をめざす銀行家・その2】

 グラミン銀行がおこなっているのは貧しい人々に少額無担保の信用貸し、マイクロクレジットである。ユヌスはローンの返済を次のように定めた。

 返済期限は1年
 毎週1定額を返済する
 ローンを借りてから1週間後から返済を始める
 利率は20%
 返済額は1週間に2%で50週間

 かなり厳しいようだが、マイクロクレジットは慈善事業ではない。「慈善や生活保護システムは受給者を囚人のような状態におく」とユヌスは言う。彼がめざすのは貧しい人達の自立と自営(自己雇用)のための道である。真に貧しい人々(小規模農家はその中にはいらない)は創造的で、悲惨な環境の中でも生き残っていくすべを知っている。彼らに必要なのはチャンスであり、クレジットがその機会を与える。いわゆる銀行家の予想に反して、ローンの返済率は100%近かった。女性達がグループを作って互いに助け合ったからである。

 1974年に始まったグラミン銀行は、その後静かにしかし急速にバングラデシュ全土に広まっていった。障害は多かった。しかし因習からの反対、宗教界からの反対、経済界からの反対など、多くの社会文化的バリアーを乗り越えていったのは、貧しい女性達自身であった。ユヌス自身は、反対者や懐疑者がいても決して彼らと対立せず、ゆっくりと着実に正しい方向に物事を進める道を選んだ。

 20年後の1997年6月、グラミン銀行は、支店数1086、行員数12,000人になり、借り手は220万人に達した。借り手の94%は女性で、額は平均して1人当たり150ドルである。10年間で借り手の半数以上が貧困線以上の収入を得るようになった。そして返済率は今も98%を超えている。

 グラミン銀行の成功の秘密について「一般の銀行のやり方をよく見て、あらゆることを逆にしてみたんですよ。」とユヌスはいう。

 グラミン銀行の特色の1つは、ふつうの銀行のように店舗を持たないことである。ふつうの銀行は、本店はもとより、支店ごとにできるだけ立派な店舗を建てて人々に誇示する。グラミン銀行は、店舗を建てて人々に来させる代わりに、自分たちの方から人々の家に出かけていく。それはグラミンが単なる金貸しの機関ではないからである。

 グラミン銀行の、そしてユヌスの目的は、今までのほとんどの国際的、国内的「開発プロジェクト」と呼ばれるものがなし得なかった、世界中の最も底辺部にいる25%の真に貧しい人たちの生活(経済、教育、文化)の質の向上である。「真の貧困の根絶は、人々が自分の運命を自分で操れるようになる時に始まる」とユヌスは言う。 

 マイクロクレジットは、国境を越えて世界中に拡がっている。すでに1982年に米国のフォード財団はマイクロクレジットの意義を認め、援助に乗り出した。初めは反対の立場だった世界銀行も協力を申し出るようになった。クリントン大統領、特にヒラリー夫人は有力な支持者となり、1997年にはヒラリーを名誉議長として137カ国から参加者を集めてマイクロクレジット・サミットが開かれ、日本からも当時の羽田首相が参加した。マイクロクレジットの哲学に基づくプロジェクトが作られつつあるのは、発展途上国だけではない。米国のWSEP(女性自営業プログラム)や日本で最近設立された女性銀行もその1つである。

 グラミン・トラストは、「裸足の最下層の人々のいない貧困なき世界」をめざして、10年で1億世帯の最貧国家族の自立を助けるという壮大な夢に乗り出している。訳者の猪熊弘子氏は、「マザーテレサは語る」の訳者でもあるだけに、ユヌスとマザーテレサを比較している。最も貧しい人々に対する愛を通じて、マザーは貧しい人に「自分は必要とされている」と見える内的な尊厳を与え、ユヌスは貧しい人々に融資してビジネスを始めさせて、外的・経済的な自立と尊厳を与えていると。その比較が当を得ているかどうかは別にして、世界にはこのような人間もいるということ、そして1人の人間の行為がこれほどの影響を世界に及ぼし得るということに、人類に対する新しい希望をあたえられた思いがする。

 実はマイクロクレジットのことを筆者が知ったのは、約10年前、当時ユニセフの事務局次長をしていたヴィタッチ氏(故人)からであった。彼もマイクロクレジットの価値をもいち早く認め、世界に広めようとした1人である。しかし最近まで、ユヌス氏自身の手になる自伝があって日本ですでに訳されていることは知らなかった。マイクロクレジットは、最近日本の新聞でも少し取り上げるようになったが、まだまだ知られていない。たまたま近くの図書館で偶然本書を見つけ、多くの人に読んでほしいと思った。



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